前向き思考でゆるりと生きる。

人の振り見て我が振り直す。

人は考える葦である。

「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」

 

 ブレーズパスカルさんというフランスの学者が言った有名なフレーズですが、人間は自然界ではかなり弱い生き物であるが、どの生き物よりも知能が発達していているということです。

 

人は生まれてから死ぬまで、文化的な生活を送ります。

動物のように獲物を狩り、家族で分け合い、繁殖をし子を育てることの繰り返しで本能的に生きるだけではありませんよね。

 

人の脳は動物でもっとも発達していて、

その知能のおかげで生物界で頂点に立っているといって過言ではありません。

 

原始的な生活から言語が生まれ、家を作り、集落を作り、組織を作り、武器を作り、戦をして領土を広げ、権力者が生まれ、お金という概念が生まれ、文化が生まれ・・・といった具合に歴史を振り返ると、人は文化的に進化し続けています。

 

現代では、デジタルの世界で発展を続け、見えない世界に人間は価値を見出すようになりました。ここまで来たのもすべて、「考える」ということで創造されてきたわけです。

 

モノに溢れ、人に溢れ、便利さに溢れ、先進国で生まれれば大抵の人は食いっぱぐれることなく一生を終えます。

 

生物的に命の危機に遭遇することはほぼない状態ですが、この状態だからこそ「暇」や「退屈」という生物界では珍しいことが起きています。

退屈すると人は考えるのをやめるか、ロクでもないことと考えたりするものです。

 

前者の場合、ただひたすらダラダラと過ごすだとか、1日中寝ていたり、何となくテレビを見続けていたり、何時間もゲームをしていたり、携帯やスマホをぼんやりと触っていたりと、何の生産性もない行動をとり始めます。

後者の場合、人をいじめたり、軽犯罪に手を出したり、弱者に悪さをするとか、そんなことに目を向けてしまう人が出てきます。

 

平和なことは良いことだけど、「なぜ平和なのに発展し続けようとするのか?」

という疑問が湧きますが、平和な状態でいるとこういう人間が増えてしまうので、社会的に何かをしていないといけなくなります。

 

日本国では、国民に3大義務を与え、「勤勉」「労働」「納税」、このいずれかで義務を果たさないものには、人権は分け与えないものとしています。

人が生きるためには考える必要があるので、考えないものに明るい未来はありません。

 

そこで思うのは、

子供の教育において根本は、「考える力を養う」という事ではないかと思います。

今の日本では、教育格差も問題になっていますが、この根本になっているテーマはどの教育でも同じことではないでしょうか。

 

教師の質だとか、世代によって教科書の厚みが違うだとか、学校の環境が良いとか悪いとか、校則がどうだとかというのは子供が選べるものではなく、これらの要因で育ち方に違いが出てくるのは当然ですし、それぞれの環境で育った子が大人になって社会に出たときに、多種多様な価値観や考え方として組織や社会発展に向かうということを考えれば、大きな問題ではないとも言えます。

 

社会人だって間違いだらけで、正しい人間なんて概念は成り立ちません。どんなに優秀であっても人格に難があったり、頭が悪くても協調性や社交性が高く、人間として誇らしい人はいるわけです。

 

中学までは義務教育で、高校からは勉強するか、働くという選択肢がありますし、高校から進学、就職、留学、経営者になるとか幅広く選択肢が出てきます。就職せずにアルバイトやパート、契約社員だとか、生き方はその人それぞれが選ぶことになります。

 

実際、まだ見ぬ世界へ飛び込むのにどの方向がいいのかは分かりません。

でもひとまずどこかの道を選ばなくてはならないので、何かの基準をもとに選択をし続けていきます。

その選択をしていく中で、何が自分に合っているのか、何がしたいのか、どう生きていくのかと、自問自答しながら日々を生きていくわけです。

 

そして、段々と知識と経験、または知恵が養われたりしていく中で、一人前の社会人になり、気づいたら多くの歳を重ね、引退・卒業・再出発と分岐点を経て、人生あっという間だったなぁなんて呟きながら終焉を迎えていきます。

 

”考える力=生きる力”

という構図は私が思うに、人間なら誰しもが共通の概念として成り立ち、考える「質」「幅」「量」「順」「向」などで、いわゆる生きがいという、人の生き様が形作られるので、考えることをやめないことこそが生き続けられる唯一の方法でしょう。

 
人はちっぽけで弱いのだから…